先日クリニックの診察で「親の無関心」について、先生とお話をしたことをまとめてみました。
育った環境は愛情不足だった?
僕は幼い頃から両親が共働きで家族との思い出があまりないというか、覚えていません。
振り返ってみると親からの愛情を十分に受けていないと感じていたように思います。小学生の時までは勉強、サッカー、生徒会など、頑張っていた記憶があります。僕には兄がいて、兄は僕以上に頑張っていたように思います。その背景には共働きの「親に褒めてもらい、頑張っている自分を認めてもらいたい思いがあった」のでしょう。兄も同じくそう思っていたはずです。
親から褒めてもらった記憶はあまり覚えていないので、それほど褒めてもらえなかったのかもしれません。どんなに頑張っても「褒めてもらえない、認めてもらえない」のは子供には辛く、寂しいですね。褒めてもらったり、認めてもらうことが愛情とは限りませんが、親の愛情を受けたくて頑張っていたとしたら尚更のことです。
ただ、このような環境で育ったことや親に対して恨んでいるわけではありません。親も僕や兄を育てていくために、共働きは必要だったんだと思います。
親の無関心は愛情不足?信頼の証?
クリニックの先生が「親の無関心」について話してくれました。愛情不足で育った人は承認欲求が強い方が多いそうです。親の関心を集めて認めてもらいたいと思って過ごしたきたからでしょうか。専門家ではないので詳しい原因はわかりませんが。
愛情不足の中には「無関心」があり、これは少し厄介なようです。
先生は例を挙げてくれました。3つのご飯をよそったお茶碗があるとします。1つには「ありがとう」と声をかける。もう1つには「バカやろー」と声をかける。最後の1つには「言葉をかけない」。すると言葉をかけなかった「無関心」のご飯が最初に腐るという例です。
無関心、恐ろしい…。
ただ先生いわく「無関心」と「愛情不足」は必ずしもイコールではなく、無関心が愛情不足ではない場合は「信頼の証」だそうです。「この子は何も言わなくても大丈夫」と思われている。そんな時「無関心」になる(そう感じる)みたいです。
このお話には「なるほど」と思いました。
数日間、このことを考えてみましたが「信頼の証」だとしたら、それは喜ばしいこと。価値ある人間として認められているので、自分を褒めてあげていいと思いました。大丈夫って思われているなら一定のレベルはできているのですから。自分を信じて好きなことをやればいいと思います。
でも自分の場合は「信頼されているから頑張らないといけない」「信頼されているから弱音を吐いてはいけない」となっていそうな気がしました。結局、いろいろ気にして無理して頑張ってしまうんかな…と。難しいですね。
少なくともこの「信頼の証」はちゃんと伝えて欲しいですね。特に子供にはわかりません。実際、親からは何も言われた記憶がないので「無関心」が「愛情不足」なのか「信頼の証」なのか、よくわからずモヤモヤ…しとります(笑)。